敬語の境界

 こんなに悪酔いしたのは学生時代以来だ。瞼が重くて視界が定まらない。頭もぼんやりしていて、胃がムカムカする。多分、真っ直ぐ歩けないんだろうな、俺。
 蛍の光が流れるのと同時にトイレから戻ってきた後輩の田仲が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「そろそろ閉店みたいです。立てますか?斎藤先輩。」
「ん…う、んー…駄目かもな。」
「肩貸しますから、なんとか駅まで歩きましょう。」
 大柄でおっとりとした田仲は一緒に得意先を回る事が多く、それなりに可愛がっている後輩の一人だ。後輩と言っても年は俺と一緒で、田仲は高校を卒業してからバイトで金を貯めて、自費で大学へ進学したらしい。
 同い年なんだから酒の席ぐらいタメ口で話そうぜ、と何度か言ってみたが、田仲は頑なに「いえ、先輩は先輩、僕は後輩ですから。」と譲らない。そんな田仲の律儀なところも気に入っていた。

 会計を終えて店を出ると、東側の空がだいぶ明るくなっているのがわかった。始発はもう動いているんだろうか。右肩を抱えてくれている田仲がしきりに「大丈夫ですか?」と、声をかけてくる。
 酒の席とは言え、こいつには何処まで話してしまったんだっけ。


「プロポーズするんだってさ、あいつ。」
 ガチャンと大きな音を立てて、俺はビールのジョッキをテーブルに置いた。
「あいつって……島田先輩の事ですか?」
「ああ、そう。付き合って三ヶ月で、馬ッ鹿じゃねーのっ。」
 それが何杯目のビールだったのか覚えてない。だいぶ経ってから追加注文したはずの枝豆の皿も空になっていた。俺は不機嫌さ丸出しで、冷えた軟骨の唐揚げを頬張った。
「別にいいんじゃないですか。島田先輩、真面目だし、よくよく考えた上での事だと思いますよ。」
「ああ、そうなんだよ、あいつってすげー真面目で、お人好しで、俺と違って要領悪いから貧乏くじばっかり引くような奴で…」
 次から次へと同期の島田を想う気持ちが溢れてくる。
「仲いいですもんね、お二人とも。」
 確かに田仲から見たら、俺と島田は仲が良いようにみえただろう。

 島田とは一度だけ体の関係があった。向こうからしたら一度きりの悪い遊びで、きっと右手の延長みたいなもんだったに違いない。
「お互い魔が差したな。」
 なんて苦笑いされて、翌日から何もなかったかのように扱われた。あいつなりの気遣いだったんだろう。
 でも俺はずっとその一晩だけの情事が忘れられなくて、くすぶる想いを抱え過ごして来た。

「…好きだったんだ。」
「え?」
 ビックリした顔で田仲が俺を見つめている。そりゃ驚くよな。自分の先輩の打ち明けばなしが”男が男を好きだった”なんて内容だったら。
「俺は島田の事、好きだったんだよ。」
 そのままビールを飲み干した。しばらく田仲は無言のままだった。

  必死に言葉を探している田仲が不憫に思えて、俺は当たり障りの無い話題を振ってやった。来週の会議の資料の事、それから今参加しているプロジェクトの打ち 上げ日をそろそろ決めなくちゃいけない事。部長が実はヅラだって話し。後は、なんだったっけ。とりあえず田仲が俺と普通に会話出来るようになった頃、もう 俺は何を話したか覚えていないほどベロンベロンになっていた。


「先輩、斎藤先輩」
 なんだろう、冷たくて気持ちいい。目を開けると、田仲がペットボトルの烏龍茶を俺の額に当てていた。
「俺、寝てた?」
「寝てましたよ、もう全然歩けないから、ちょっと休んでいくしかないなと思って…」
 そこは雑居ビルの階段で、俺は田仲に背後から抱えられていた。
「はぁ〜、だらしねぇな俺。」
 起き上がろうとしても目が回って動けず、結局田仲に体を預けたままにするしかない。
 好きな男には振られ、後輩には酔って迷惑をかけ、最悪の状態だと思った。自己嫌悪で胃がギュッと持ち上がる。
 時計を見ると、6時を少し回っていた。今日は金曜日だ。普通に会社がある。これ以上田仲を付き合わせるのは申し訳ない。
「田仲、時間、やばいだろ。俺置いてっていいからさ、お前先帰れよ。」
「いいですよ、こんなとこに斎藤先輩置いてけないです。」
「心配すんな、置いてけって。」
「嫌です。」
「いいいから置いてけってば。」
「嫌だって言ってんだろ!!!!」
早朝の路地裏に、田仲の怒鳴り声が響き渡った。声の大きさにもビックリしたが、敬語じゃなかった事にも驚いた。

「…好きだったんだ。」
 そう言ったのは俺の顔を覗き込んでいた田仲だった。
「えっ?」
 さすがに酔いもぶっ飛んだ。聞き間違いじゃない、よな。
「俺はずっと、斎藤の事好きだったんだよ。」
「え?っていうか、なんで敬語じゃ…」
「もういいよ、めんどくせーよ。」
 ジッと田仲は俺を見つめていた。だんだん顔が近づいてくる。ああ、これは多分キスだ。逃げようと思えば逃げられる。でも俺は逃げなかった。
 触れた唇は温かくて柔らかかくて。
 唇が離れた瞬間、田仲の息が熱くて、少し興奮した。
「俺が斎藤の傷を癒したい。俺だったら絶対斎藤を泣かせない。」
 それは多分真剣で真っ直ぐな想いで、木訥な田仲からしたら随分勇気のいる台詞だった事だろう。

 俺はタメ口で話す田仲の事を嫌いじゃないと思った。

恋愛お題ったーから2011年9月14日に出題されたお題を元に書きました。
TAKERUさんは、「早朝の路地裏」で登場人物が「プロポーズする」、「傷」という単語を使ったお話を考えて下さい。
2,171文字 http://shindanmaker.com/28927 #rendai