敬語の境界 Epilogue

「先輩、そろそろ俺上がりますけど…」
「え?」
 振り返ると、田仲の肩越しに見える壁掛け時計が22時を回っていて驚いた。
 社内の広いフロアの照明はもう半分以上消され、同じ課の連中はほとんど残っていない。俺は作りかけのエクセルファイルを保存しながら、大きなため息をついた。
「やっぱり今日中に終わんねぇな…俺も帰るかな。」
 上半期末という事もあって、日に日に翌日へ持ち越す仕事が増えていく。忙しい時期だから仕方ないとわかっていても、酒でも飲んで憂さ晴らししたい気分だった。
 PCの電源を落としてロッカーへ荷物を取りに行って戻ってくると、すっかり帰り支度を済ませた田仲が俺の机の前で待っていた。
「田仲、一杯だけ飲んで帰るか。」
「いいですよ。」
 一度鞄にしまった携帯電話を取り出して終電を調べはじめた田仲の口元が僅かに緩んでいた。

 田仲に告白されたあの日から、いや、俺が田仲にカミングアウトした日というべきか。とにかくあの日から、一週間が過ぎた。俺達は付き合っているわけでもなく、かと言って仲が悪くなったわけでもなく、今までと変わらない先輩後輩の関係だった。
 あの日以来、あいつのタメ口も聞いていない。今まで通り田仲は俺に敬語を使い、俺もその事に対して指摘はしなかった。 まぁ、ここまでは都合のいい話だ。
 俺は田仲の優しさに甘えて、あの日の告白を宙ぶらりんのままにしている。
 あれから田仲がずっと何か言いたげにしているのも、俺の帰宅時間に合わせて仕事を終わらせているのもわかっている。
 だが俺にも気持ちを整理する時間が必要だった。
 島田の事を想ってきた一年半は決して短い時間じゃない。だいたい島田が駄目ならじゃあ田仲で、なんて都合が良すぎる。ならば断ればいい、簡単な事だ。
 その簡単な事が出来ないのは田仲に同情しているからなのか、俺が田仲の事が嫌いじゃないからなのか。
 それとも島田の事を好きだった、その感情が簡単に消えてしまいそうな自分が嫌なのか。
 そろそろケリをつけるべきだと俺は覚悟を決める事にした。

 会社の入ったビルを出ると暑さが残る9月の風が頬を掠めた。
 その瞬間、湿気の酷かったあの日の朝の記憶がフラッシュバックして、田仲と交わしたキスの感触が鮮明に思い出された。田仲の熱い息と求められる舌の感覚。
 駅前の馴染みの店まで向かう間、俺は何度もあのキスを思い出してしまい田仲と目を合わす事が出来なかった。気のせいか田仲もいつもよりも口数少なく、俺達は足早に店へと急いだ。



「先輩と飲むのはあの日以来ですね。」
 居酒屋のテーブルについた田仲がお手拭きを丁寧に畳みながら呟いた。
「ん…あ、ああ。そうだな。」
 お膳立てした話題のはずが、ぎこちない返答になってしまった。
 田仲が言いたいことを言えるような空気を作ってやりたいと思っていたのに、やはり緊張してしまう。俺はなるべくいつも通りに装うとした。
「付き合うのって、やっぱ無理ですか。」
「え?」
 いきなりストレートに聞かれて、声が裏返った。もっと酒を飲んでから核心に触れるもんだとばかり思っていたから、予想外の展開だ。肴につけた箸を一旦置いて、俺は田仲の視線に応えた。
「だって、これでお前と付き合ったら俺、都合良すぎるだろ?」
「そんな事無いですよ、それ言ったら俺だって…島田先輩に振られて傷ついてる斎藤先輩の気持ちにつけこんでるし。」
 上目遣いで俺の顔を覗き込んだ後、田仲はジョッキに手を伸ばしグイッとビールを一口飲んだ。
「今はまだ…島田先輩の事が好きでもいいんです。でも俺、必ず先輩を…幸せに…します。」
 そうゆっくりと丁寧に語る田仲の唇の端に、薄っすらとビールの泡が残っている。それが妙に色っぽくて、不謹慎にも俺はまたあのキスの感触を思い出していた。もう一体何度あのキスを反芻した事か。
「やっぱ…敬語じゃない方がいいのかな。」
 ポツリと呟いた田仲の声で、俺は現実に引き戻された。
 はにかみながら笑う田仲の表情がいじらしい。俺はこれ以上迷う必要は無いと感じた。

「敬語じゃない方が、うん、いいかもな。」
「斎藤って呼び捨てして…いい?」
「好きに呼べばいいだろ。」
 ジッと俺の顔を見て、田仲が様子を伺っている。不安気な視線を感じながら俺はマグロの刺身に箸を伸ばし、醤油を絡めてから一度手を止めた。

「苗字じゃなくて、高志って名前で呼べばいんじゃねーの?」
 用意しておいた答えを思っていたよりスルっと、簡単に言えて俺はホッとした。そのまま刺身を口にほおりこんで頬張った。
 その一方で目を丸くした田仲が「えーー?えっ?それって?」と慌てふためいている。その様子が あんまりおかしくて俺は我慢出来ず笑い出した。
「察しろよ、それくらい」
「いや、察しろって言われても、じゃあえっと、斎藤は結局、俺と…」
 田仲が何もかも言い終える前に俺はそっと田仲の右手に触れた。
「それで、田仲の下の名前は、なんて言うんだっけ?」
 垣根を取り払った俺達が次はいつ終電を逃してしまうか、それが俺にとっての新しい悩みの種だ。

敬語の境界ボイスドラマ晩公開後、拍手お礼用にUPしていたSSです。